コラム
(田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける)
「富士に雲龍」は草場一壽にとって、山部赤人が詠んだこの有名な和歌の情景とどこかリンクしているのでしょう。
キンと冷えた冬のある日、夜の明けきらぬうちにあわく朝靄の漂う中を小舟で田子の浦に漕ぎ出します。手がかじかみ息が白くなる寒さ、波の音ばかりが一定のリズムで耳朶を打つ静かな時間、物思いしながらゆっくり小舟を漕げば次第に空が明らみ、俄かに霧が晴れてゆきます。目の前に立ち現れるのは、白絹を纏ったように目にまぶしいほど清らな雪を頂く優美な富士山。青く穏やかな海と静謐な空気と相まって、その情景は畏敬の念を抱かせるほどひどく神々しく圧倒的な印象を刻み付けます。霧の残滓や細くたなびく雲は、霊山から飛び立つ龍に見まがう姿だったかもしれません。
この和歌をめぐっては、田子の浦と富士山の距離を考えれば、それほど明瞭には見えなかったのではないか、詠まれた情景は山部赤人の想像によって誇張されたものなのではないかという人もいます。現実の風景に喚起された心象風景の描写であってもかまわない、むしろそこに詠まれたかもしれない心は、「富士に雲龍」が描きたかったものと重なるように思えます。強大で神秘的な大自然に対する畏敬と、雄大な大自然に自分の存在そのものが抱かれ溶け込み一体化するような不思議な感覚、則従えば自分の願いはきっと叶うという高揚感と万能感。
富士山と雲も物質的に見ればただの隆起した土の塊と、微細な埃を核にした氷の結晶ですが、己の心ひとつでそれは力強い霊山と、そこから更に高みを目指す龍に変じます。そして、雲は、中国の伝承では龍が氣を吐き出したものだともいいます。その雲を掴み自在に空を駆け、雨を降らせ雷を落とす、雲は龍の霊力の象徴だそうです。富士山から飛翔する龍の吐き出した彩雲は、龍の意志そのもの、秘められた力と希望の象徴なのです。
自分という存在を、翼をもたないちっぽけなものとするのも、自在に飛んで願いを叶える龍とするのも自分自身。陶彩画「富士に雲龍」は、ありふれた情景にもっと美しい意味を与える作品であり、自分の可能性を広げる促しになるような作品であってほしいと、工房一同願ってやみません。