コラム
長きにわたって、登る(昇る)ことばかりで必死で、その後どこを目指すか、あるいは、いかに下りる(降りる)かを考えてきませんでした。
「目的」を追い続けることが求められるばかりで、世界のあり方にかなっているのか、私たちの人生を真に豊かにするのかは二の次でした。目的ありきで、心に問いかけることを許さなかったのです。
休息ということも含めて、そういうことが問われているのかも知れません。
さて「富士超えの龍」は私たちの貴重である精神性を象徴するものとして制作いたしました。たとえば、清明心(心の浄化)です。古来より、自然を深く愛し敬い畏れ、自然(神々や大いなる力)との調和を目指すとき、なにより心の清明さを求めてきたのです。
霊峰富士の見事な美しさ(そこに託す、心の清らかさ)。その富士を超えてゆかんとする龍の姿にもまた、淀みがありません。なんと悠然として、なんとすがすがしいことでしょう。
経済成長は、豊かさを生活というカタチでも実現しました。それがまた、見えるものとしての豊かさの偏重につながりました。でも、真に大切なもの(精神性の豊かさ)をなくしたわけではありません。いっとき、見誤ったかも知れませんが、私たちの中に、脈々と流れ続けているものは今も確かにあります。感じることができます。それがなにかを思い出す時期に来ています。
累々といのちをつないできた大いなるものが、今も私たちを見守り、励ましてくれています。富士超えの龍の姿は「私の心」の姿です。恐れず、奢らず、屈せず、そしておおらかに、生きていく自らの強さです。さあ、勇気を出して、ともに歩いていきましょう。
「目的」を追い続けることが求められるばかりで、世界のあり方にかなっているのか、私たちの人生を真に豊かにするのかは二の次でした。目的ありきで、心に問いかけることを許さなかったのです。
休息ということも含めて、そういうことが問われているのかも知れません。
さて「富士超えの龍」は私たちの貴重である精神性を象徴するものとして制作いたしました。たとえば、清明心(心の浄化)です。古来より、自然を深く愛し敬い畏れ、自然(神々や大いなる力)との調和を目指すとき、なにより心の清明さを求めてきたのです。
霊峰富士の見事な美しさ(そこに託す、心の清らかさ)。その富士を超えてゆかんとする龍の姿にもまた、淀みがありません。なんと悠然として、なんとすがすがしいことでしょう。
経済成長は、豊かさを生活というカタチでも実現しました。それがまた、見えるものとしての豊かさの偏重につながりました。でも、真に大切なもの(精神性の豊かさ)をなくしたわけではありません。いっとき、見誤ったかも知れませんが、私たちの中に、脈々と流れ続けているものは今も確かにあります。感じることができます。それがなにかを思い出す時期に来ています。
累々といのちをつないできた大いなるものが、今も私たちを見守り、励ましてくれています。富士超えの龍の姿は「私の心」の姿です。恐れず、奢らず、屈せず、そしておおらかに、生きていく自らの強さです。さあ、勇気を出して、ともに歩いていきましょう。