作家紹介

Profile

陶彩画家 草場 一壽

陶彩画に託した想い

作家 草場一壽のアーティストとしての一貫したテーマは「いのち」であり、陶彩画は「いのちを寿ぐ」ための表現手段です。

表現者・アーティストとしての生き方を選択した後、表現の素となる経験を積むために、バックパッカーになってアジアを中心に世界中を旅して廻りました。最初に訪れたインドでは「いのち」の躍動感に感じ入り、「いのち」が在るという当たり前の事実が唐突に深く理解できたといいます。雷に打たれたように、という表現がありますが、まさにそんな感覚だったかもしれません。純粋な歓喜に全身が高揚し、あらゆる光景が新鮮なもの、素晴らしいものに感じられ涙が出るほど胸を打つとともに、ああ、芸術家たちは皆この瞬間のこの感覚を詩にしているのだ、この感覚こそがものづくりの原点なのだと気づいたそうです。また、美しいものも汚いものも両極端なものが混沌のうちに併存している様を見て、まるで自分自身の心の内を見ているようだと感じ、全ては自分の視点・まなざし一つで意味も見方も変わるのだと気づかされたと草場は語ります。

「いのちを寿ぐ」というテーマにおける「いのち」とは、生きている人間や生き物のことを指しているわけではありません。山から川を伝い海に流れて雨となってまた山に注ぐ水、水を受けて豊かに実る大地の恵み、それを食べて生きる動物と、その動物をまた食べる動物、生み育まれる新しい命、親から子へ子から孫へと託される命。縦に横に、あらゆるものが繋がって循環しながら存在する、この世界そのものが「いのち」であり、私たち一人一人は自分の意識の持ち方・視点次第でその「いのち」の一部にも全部にもなれる、それが草場が陶彩画を通して慈しみたい「いのち」です。「いのち」の比類なき輝かしさ、得も言われぬ多様な彩り、自分たちもまたその一部であること、それらを表現するために、煌めきと鮮やかさを兼ね備えた陶彩画という技術が編み出されたのです。一貫したテーマは「いのち」であり、陶彩画は「いのちを寿ぐ」ための表現手段です。

陶彩画も、母なる大地・土から生み出されること、鉱物との対話を経て釉薬が火の力を借りて輝くこと、己のこだわりを捨てて「火に託す」ことなど、全ての制作過程が自然との交わりに満ちています。陶彩画制作は、いかに自然と同化できるかという挑戦であり、制作過程そのものもまた、いのちの表現ともいえるのです。

ちっぽけな「自分」の意識にこだわればこだわるほど、この世界はままならないことが多くて辛くなりますが、「自分」に執着せずおおらかに「いのち」に向き合えばもっと自由になれるのだということもまた、「いのち」の教訓です。草場はそのことを「託す」と表現します。窯入れは文字通り「火に託す」ことです。自分が丹精こめて制作してきた作品でありながら、もはや自分の手は届かず、気をもんでも執着しても仕方がありません。そうしてでき上がる作品は、不本意なものになることもあれば、作家の思惑や想像を遥かに超えた輝かしいまでに素晴らしいものができあがることもあります。思い通り美しいものができる以上に素晴らしいものは、個人の思惑を手放した先にこそ得られるのです。窯入れは、己のこだわりや執着を手放し自然の理に身を委ねることの象徴であり、「いのち」の一部ではなく全部に溶け込んでゆくプロセスのようにも思われます。

例えば神話や菩薩をモチーフにしたのは、神そのものを描きたかったからではなく、「いのち」を循環させている大きな意志、人によっては大自然や神と呼ぶかもしれない存在を前にしたときに人が感じるであろう畏敬の念や安心感を与える作品を作り出したかったからです。龍や鳳凰を描いたのは、その力強さ・美しさへの憧れを共有したかったからであり、こんな風に自在に生きたいと願って欲しいからです。花や富士山、自然を描いた作品を通して、自然の美に目を向けるだけでなく、自分にも同じ美しさが宿っていることを感じて欲しいのです。大人が背中を丸め疑心暗鬼に囚われた目を世界に向けて溜息を吐けば、その様を見ている子供たちも、未来への希望を失ってしまうでしょう。私たち一人一人が、次世代の担い手はこうあって欲しいという姿の手本を示さねばなりません。辛いこと・悲しいことに耐え、ただ永らえて命を「消費」するのではなく、たとえ困難のさなかにあっても、心を開き生きることを喜べるように、本当の幸せを希求できるよう観る人の背中を押したい、それが、「いのちを寿ぐ」陶彩画作品に込めた祈りです。