コラム
陶彩画33周年記念作品『桃華の姫イワナガヒメ』
おかげさまで、陶彩画(=草場一壽のオリジナルアート)も33年を迎えることが出来ました。西洋では、33はエンジェル数字と言われて縁起のよい数字です。33回忌というのも法要では大きな区切りとなりますね。
そんな33年を記念しての作品が、桃華の姫です。桃華の姫とは、イワナガヒメのこと。いのちの象徴として、新たな時代に向けたメッセージを込めました。
●イワナガヒメは、「いのち」の象徴
神話によると、コノハナサクヤヒメの美しさに魅せられたニニギノミコトは、すぐに求婚し、許しを得るのですが、コノハナサクヤヒメの父であるオオヤマズミノカミは、姉娘のイワナガヒメも一緒に嫁がせます。ところが、ニニギノミコトは、美しいコノハナサクヤヒメだけでよいと、醜いイワナガヒメを追い返してしまいます。
オオヤマズミノカミは怒り、ニニギノミコトにこう告げます。
「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄し、イワナガヒメを妻にすれば、命は岩のように永遠のものとなると誓約(うけい)を立てたからだ。コノハナサクヤヒメだけを妻にするならば、命は木の花のようにはかなくなるだろう」。
コノハナサクヤヒメは、木の花のような一代の栄華。見える世界の(有限の)いのち(カタチ)の象徴です。一方でイワナガヒメはいのち「そのもの」であって、循環・再生という永遠のいのち(大生命)の象徴です。
33周年の記念すべき作品のテーマを「大生命」と考えて選んだのが、この、大いなるいのちの象徴である「イワナガヒメ」でした。
●桃の神話
イワナガヒメを題材にした作品を「桃華の姫」と名付けました。
桃は古代より、特別な力(霊力)があるとされています。
中国では、桃は崑崙山の主人である女仙・西王母が持つ果実で、3000年に一度実を結ぶ長寿の仙果。古代より生命力のシンボルとされ、病魔も邪気も払って生命の躍動を助けるものと信じられてきました。
日本でも古くは古事記や日本書紀にも登場しています。
古事記によると、イザナギノミコトが死んだイザナミノミコトを連れ戻そうと黄泉の国に赴いたとき、鬼に追いかけられてしまいます。イザナギが地上の世界(生)と黄泉の世界(死)の境目である「黄泉つ比良坂(よもつひらさか)」までたどり着き、麓に生えていた桃の木から3つの実をとって投げたところ、鬼は一目散に逃げ出したとあります。その功績により、桃の実は「オオカムズミノミコト」と名をいただく神にもなりました。
また、2009年、邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡では、祭祀(さいし)に用いたとみられる、2800個もの大量の桃の種が見つかっています。祭事や信仰、呪術の対象として古くから珍重されてきたことがわかります。
中国にも日本にも、「桃信仰」と言えるようなものがあり、どちらも、いのち=再生をテーマにしています。
●桃太郎伝説
日本人にとって、「桃」で最もなじみ深いのは、桃太郎と桃の節句でしょうか。
桃太郎のおはなしは、前述のイザナギノミコトの神話を起源にしたものとも言われています。室町時代の末期頃までに口承の昔話として成立し、江戸時代になって文字化され、明治期には国定教科書に採用されました。古い、古いお話です。
こうしていくつもの時代を経ていますから、「鬼」というものの概念、見方も時代によって変遷してきたと思います。
そのはじまりは、端的に「恐ろしいもの」でしょう。恐れは畏れに通じ、つまりは、「恐ろしいもの」は人間の力の及ばないものなのかもしれません。
そして、鬼は異形のもの(先住民や渡来人、漂着民)ともなりました。支配者から排除される存在です。
それが更に転じて、「悪事をはたらくもの」にもなってゆきます。勝者の歴史の中では、鬼は「退治されるもの」となったのです。退治する側(こちら側)と退治される側(あちら側)という相対的な概念が生み出した「鬼」というわけです。
●いのちは平たい。いのちに美醜はない。
どのいのちも、大いなるいのちから生まれ、大いなるいのちに還っていきます。
大きな、巨きな循環の中で、過去のいのちも未来のいのちも手をとりあって結ばれているのです。高低もなければ上下もなく、是非もなければ善悪もない、「大生命」の世界です。
しかし、相対的な概念にとらわれたために、コノハナサクヤヒメもイワナガヒメも「絶対的」ないのちの存在にも関わらず、美醜と言う「相対的」なものにされ、本来の「いのち」を見えなくしてしまいました。
鬼という存在を考えることは、そうした視点を再考する契機になるかも知れません。昔話を背景に、そんなことを思います。
●桃の節句
もうひとつ33の数字にちなんで・・・桃と言えば3月3日の「桃の節句(=節供)」。桃の読みが「百歳=ももとせ」に通じることから、健康や長寿への祈りが込められています。また、冬の気(陰)と春の気(陽)がせめぎあうこの季節に、いのちの実である桃が生命の躍動と再生の役目を果たすと考えられてきたのです。
また、桃は実がたくさん実ることから、子宝に恵まれる、更にそこから、女の子の健やかな成長を願う、という意味も込められています。桃の種は婦人病を治す生薬でもあり、血流をよくするといった効能もうたわれているようです。
●桃華の姫に託す思い
いまは、目に見えるものに価値をおく土の時代から、心や魂を基調にする風の時代へと移ったと言われています。
時代を変えるのは、さてなんでしょう?
土の時代、時代を変えるのは「文明」であるという信仰がありました。なぜなら、「豊かさ」こそが、求めるものだったからです。
その豊かさとは、目に見えるもの、とりわけお金で勘定できるものでした。言い換えれば、消費できるものでした。消費者として、豊かさを追いかけてきたのです。
いのちも(自然や人間も)また同様に、消費の対象となりました。選抜されたり、差別されたり、その基準は、「出来る・出来ない」「役にたつ・役にたたない」「優れている・劣っている」といった、傲慢で相対的な価値観です。
美醜といった目に見えるだけの違いや、違うものを鬼にしてしまう勝者の視線、排除の構造もまた、そんな相対的な価値観によるものだと思います。
時代は大きく揺れて、次のステージに移ったようです。
いまあることの奇跡を、その喜びをかみしめながら、いのちの華を咲かせていきましょう。みな桃華の姫のごとくに、美しいいのちの花です。
永遠なるかな、わがいのち。わがこころは、大宇宙にして、ふるさとは・・・大生命。あなたの存在こそが大生命の願いであり、また祈りでもあります。