コラム
コノハナサクヤヒメの神話世界
国産みの夫婦神イザナギ、イザナミから生まれた神々の一柱、山の神オオヤマズミノカミには、コノハナサクヤヒメという美しい娘がいました。アマテラスオオミカミの孫にあたるニニギノミコトはその美しさに心打たれてコノハナノサクヤヒメに求婚します。オオヤマズミノカミもこの縁組を喜び、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせます。ところが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを厭うて追い返してしまい、オオヤマズミノカミは怒ってニニギノミコトに告げます。「私は、イワナガヒメを妻にすれば命は岩のように永遠のものとなり、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てて娘二人をあなたに嫁がせた。コノハナサクヤヒメだけを娶るならば、命は木の花のように儚くなるだろう。」と。このために、ニニギノミコトとその子孫は神としての永遠の命を失いました。
神話の神々がどういった存在であるかには諸説ありますが、草場一壽は、オオヤマズミノカミは山を司る神というよりは山そのものだと解釈しました。山は、雨や雪として降ってきた水を蓄え、鉱物のミネラルや栄養分を含ませた上で、河川を通じて平地へと運びます。人体における心臓のように、山は水と栄養分を循環させるポンプの機能を果たしています。オオヤマズミノカミは、こうした働きを持つ山そのもの、いわば循環を司る存在なのです。そして、その山の神から産まれたコノハナサクヤヒメは木の花のような儚い美しさ、すなわち一代の栄華を象徴する一方、イワナガヒメはいのちそのもの、循環という永遠のいのちを象徴します。本当は丸ごと受け取らねばならなかったのに、表裏を成すはずの一方を拒絶したために、本来割れないものを割ったところに死が生まれたのでしょう。
「美しいもの醜いもの」「良いもの悪いもの」と区別し一方を忌避することは、物質世界に囚われているからこそという気がします。五感を通して「見えている世界」は、物質世界にすぎません。
そしてその物質世界も、普段は見えないミクロの視点で覗けば、原子核の周りを電子が巡る、太陽の周りを惑星が巡るのと似たような構造が見えてきます。更に、20 世紀を目前に発見されたのは、10のマイナス19乗ミリ以下の極小の世界、素粒子の世界でした。「物」と一言で表現されるその中に、宇宙に擬えられるほどの無限の空間と神秘が広がっています。五感では単なる静物としか認識できない物体であっても、実際には超高速で動き続ける波動、エネルギーの塊です。万物を形創り世界を満たすエネルギーは、生物・静物を個として存在せしめると共に、個々を互いに繋ぎいのちを循環させるもの。万物を生かす意志そのものともいえそうなそれを、人によっては神と呼んだり、大宇宙、全能者、創造主などと呼んだりするのでしょう。仮にそのエネルギーを「神」と呼ぶならば、私たち一人一人は、神本体から派生した部分であり、「神の震え」「神の響き」とでも呼べるかもしれません。言い換えれば、「見えている世界」の隠れた真実とも言うべき「見えていない世界」は「神の響き」で満たされているのです。普段の私たちは「見えている世界」の固定観念に囚われて、「神の響き」という真実の姿を忘れてしまっているのでしょう。
コノハナサクヤヒメとニニギノミコトの神話は、本来一体であるものを分けてしまうことへの戒めであるように思えます。目に見えない神の響きが万物を形創ることを忘れて、目に見えるものだけを頼りにする価値観への戒めです。私たち自身が神そのものの響きであり、自分の内側に神の世界を抱いていることを表そうと制作したのが、コノハナサクヤヒメの陶彩画です。
二相一対の理
コノハナサクヤヒメが覗き込む揺れる湖面に映るのは、彼女と表裏を成すイワナガヒメです。揺れる水面に本当の姿は映りません。水面は自分と向き合おうとする心そのものであり、その心が歪んだり荒んだりすれば、本当の自分の姿もまた歪んで捉えられないということかもしれません。
右方に描かれているのは、コノハナサクヤヒメの象徴花である桜です。麗しい盛りの時は短く、哀しいほどあっという間に花吹雪となって散ってゆく儚い花ですが、散ったその時から次の花を咲かせる準備を始めるそうです。私たちも、肉体を持つ身としていずれこの世を卒業しますが、神そのものの響きが肉体と精神を形創る以上、循環するいのちの中で永続するともいえます。
コノハナサクヤヒメにはもうひとつ印象的なエピソードがあります。
彼女は新婚初夜で身籠りますが、ニニギノミコトは自分の子ではないのではと疑います。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために、ニニギノミコトの子であれば出産できるという誓約(うけい)をたてて産屋に火を放ち、炎の中で3人の子を無事に産み落とします。
肉体を自分だと思っていれば死すべき身にすぎませんが、自分は霊であり神そのものの響きだという自覚を持てば、世界は反転するということを物語っているように思えます。自分を滅ぶ存在に止めるのは自分の心なのです。「自心すなわち仏たることを悟れば、阿弥陀願うに及ばず。自心の外に浄土なし」です。似たような思想は武道にも息づいています。剣道は「人を斬らずに人の邪気を斬る」、合気道は「敵と友になることが合気の道だ」と教えます。敵を伐つのではなく、対峙すべき「敵」が消えるのが武道が理想とする境地なのです。
「今こそ調和の世界を」とはよく耳にしますが、目指すまでもなく元来万物は繋がり合い調和しています。困難も問題も、根源にあるのは、この世界を物質世界だと思い込む心です。本当の世界は陰と陽の二極がバランスを取り合った、神の響きそのものです。弁別し排除するのではなく、調和したものとして丸ごと受容することが必要とされている時代なのだと思います。
コノハナサクヤヒメで描きたかったのは、一言で言えば「陰陽二相一対」です。
「無極にして太極(混沌たる根元)。太極動いて陽を生ず。動くこと極まりて静かなり、静かにして陰を生じ、静かなること極まりてまた動く。一動一静、互いに其の根と為って、陰に分かれ陽に分かれて、両儀立つ。」
周敦頤の著した「大極図説」の冒頭の一説です。
陽と陰とは、互いに正反対のようでありながら相揃って初めてひとつの要素を為します。美醜も同様です。美しいコノハナサクヤヒメと醜いイワナガヒメも、相揃って愛おしいいのちを成すのです。揺らいだ水面に本当の姿が映らないように、惑う心が幻を追わせて目に見えるものだけを信じさせ、ついには二相一対の理を忘れさせるのではないでしょうか。
心静かに、神そのものの響としてあらゆるいのちを愛おしみたいものです。
草場一壽工房
国産みの夫婦神イザナギ、イザナミから生まれた神々の一柱、山の神オオヤマズミノカミには、コノハナサクヤヒメという美しい娘がいました。アマテラスオオミカミの孫にあたるニニギノミコトはその美しさに心打たれてコノハナノサクヤヒメに求婚します。オオヤマズミノカミもこの縁組を喜び、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせます。ところが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを厭うて追い返してしまい、オオヤマズミノカミは怒ってニニギノミコトに告げます。「私は、イワナガヒメを妻にすれば命は岩のように永遠のものとなり、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てて娘二人をあなたに嫁がせた。コノハナサクヤヒメだけを娶るならば、命は木の花のように儚くなるだろう。」と。このために、ニニギノミコトとその子孫は神としての永遠の命を失いました。
神話の神々がどういった存在であるかには諸説ありますが、草場一壽は、オオヤマズミノカミは山を司る神というよりは山そのものだと解釈しました。山は、雨や雪として降ってきた水を蓄え、鉱物のミネラルや栄養分を含ませた上で、河川を通じて平地へと運びます。人体における心臓のように、山は水と栄養分を循環させるポンプの機能を果たしています。オオヤマズミノカミは、こうした働きを持つ山そのもの、いわば循環を司る存在なのです。そして、その山の神から産まれたコノハナサクヤヒメは木の花のような儚い美しさ、すなわち一代の栄華を象徴する一方、イワナガヒメはいのちそのもの、循環という永遠のいのちを象徴します。本当は丸ごと受け取らねばならなかったのに、表裏を成すはずの一方を拒絶したために、本来割れないものを割ったところに死が生まれたのでしょう。
「美しいもの醜いもの」「良いもの悪いもの」と区別し一方を忌避することは、物質世界に囚われているからこそという気がします。五感を通して「見えている世界」は、物質世界にすぎません。
そしてその物質世界も、普段は見えないミクロの視点で覗けば、原子核の周りを電子が巡る、太陽の周りを惑星が巡るのと似たような構造が見えてきます。更に、20 世紀を目前に発見されたのは、10のマイナス19乗ミリ以下の極小の世界、素粒子の世界でした。「物」と一言で表現されるその中に、宇宙に擬えられるほどの無限の空間と神秘が広がっています。五感では単なる静物としか認識できない物体であっても、実際には超高速で動き続ける波動、エネルギーの塊です。万物を形創り世界を満たすエネルギーは、生物・静物を個として存在せしめると共に、個々を互いに繋ぎいのちを循環させるもの。万物を生かす意志そのものともいえそうなそれを、人によっては神と呼んだり、大宇宙、全能者、創造主などと呼んだりするのでしょう。仮にそのエネルギーを「神」と呼ぶならば、私たち一人一人は、神本体から派生した部分であり、「神の震え」「神の響き」とでも呼べるかもしれません。言い換えれば、「見えている世界」の隠れた真実とも言うべき「見えていない世界」は「神の響き」で満たされているのです。普段の私たちは「見えている世界」の固定観念に囚われて、「神の響き」という真実の姿を忘れてしまっているのでしょう。
コノハナサクヤヒメとニニギノミコトの神話は、本来一体であるものを分けてしまうことへの戒めであるように思えます。目に見えない神の響きが万物を形創ることを忘れて、目に見えるものだけを頼りにする価値観への戒めです。私たち自身が神そのものの響きであり、自分の内側に神の世界を抱いていることを表そうと制作したのが、コノハナサクヤヒメの陶彩画です。
二相一対の理
コノハナサクヤヒメが覗き込む揺れる湖面に映るのは、彼女と表裏を成すイワナガヒメです。揺れる水面に本当の姿は映りません。水面は自分と向き合おうとする心そのものであり、その心が歪んだり荒んだりすれば、本当の自分の姿もまた歪んで捉えられないということかもしれません。
右方に描かれているのは、コノハナサクヤヒメの象徴花である桜です。麗しい盛りの時は短く、哀しいほどあっという間に花吹雪となって散ってゆく儚い花ですが、散ったその時から次の花を咲かせる準備を始めるそうです。私たちも、肉体を持つ身としていずれこの世を卒業しますが、神そのものの響きが肉体と精神を形創る以上、循環するいのちの中で永続するともいえます。
コノハナサクヤヒメにはもうひとつ印象的なエピソードがあります。
彼女は新婚初夜で身籠りますが、ニニギノミコトは自分の子ではないのではと疑います。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために、ニニギノミコトの子であれば出産できるという誓約(うけい)をたてて産屋に火を放ち、炎の中で3人の子を無事に産み落とします。
肉体を自分だと思っていれば死すべき身にすぎませんが、自分は霊であり神そのものの響きだという自覚を持てば、世界は反転するということを物語っているように思えます。自分を滅ぶ存在に止めるのは自分の心なのです。「自心すなわち仏たることを悟れば、阿弥陀願うに及ばず。自心の外に浄土なし」です。似たような思想は武道にも息づいています。剣道は「人を斬らずに人の邪気を斬る」、合気道は「敵と友になることが合気の道だ」と教えます。敵を伐つのではなく、対峙すべき「敵」が消えるのが武道が理想とする境地なのです。
「今こそ調和の世界を」とはよく耳にしますが、目指すまでもなく元来万物は繋がり合い調和しています。困難も問題も、根源にあるのは、この世界を物質世界だと思い込む心です。本当の世界は陰と陽の二極がバランスを取り合った、神の響きそのものです。弁別し排除するのではなく、調和したものとして丸ごと受容することが必要とされている時代なのだと思います。
コノハナサクヤヒメで描きたかったのは、一言で言えば「陰陽二相一対」です。
「無極にして太極(混沌たる根元)。太極動いて陽を生ず。動くこと極まりて静かなり、静かにして陰を生じ、静かなること極まりてまた動く。一動一静、互いに其の根と為って、陰に分かれ陽に分かれて、両儀立つ。」
周敦頤の著した「大極図説」の冒頭の一説です。
陽と陰とは、互いに正反対のようでありながら相揃って初めてひとつの要素を為します。美醜も同様です。美しいコノハナサクヤヒメと醜いイワナガヒメも、相揃って愛おしいいのちを成すのです。揺らいだ水面に本当の姿が映らないように、惑う心が幻を追わせて目に見えるものだけを信じさせ、ついには二相一対の理を忘れさせるのではないでしょうか。
心静かに、神そのものの響としてあらゆるいのちを愛おしみたいものです。
草場一壽工房