2021.02.05

作品紹介「壽花」

カテゴリー:作品・グッズ

中国は晋の時代、ある漁師が舟で渓谷に沿って下るうちに、桃の花が咲き乱れる林に迷い込みました。夢のように美しい光景に驚きながら漕ぎ進んだ漁師は水源に辿り着き、そびえたつ山に微かに光のさす洞穴を見つけました。舟を置いて穴をくぐりぬけて進んだ先には、のどかで平和な村がありました。豊かな土地、麗しい自然、穏やかな家畜。村人たちは、突然現れた男を歓迎し、銘々の家に招いてもてなします。村人たちは言います、自分たちの先祖は秦の始皇帝の死後、戦乱の世を厭うてこの地に辿り着き、以来ひっそりと隠れ住んできたのだ、と。彼らは外の世界から隔絶して、時代の移り変わりも知らず悠々自適に、平和に暮らしていました。数日の滞在後、漁師は村をあとにし自分の見聞きしたことを人々に語りました。この世の楽園のようなその村に行こうと皆躍起になりましたが、誰も二度と見つけられませんでした。

桃源郷の語源となった、陶淵明の作品「桃花源記」のあらすじです。

一般的には理想郷を意味するとされる「桃源郷」ですが、「ユートピア」が「現実には存在しない完全社会」であるのに対し、「桃源郷」は現実と地続きにあります。俗世と隔絶した神界や仙界のような場所ではありません。そして、隠れ里として描写されているのは、決して特別な光景ではなく、穏やかではあるけれどもごく平凡な村なのです。これをどのように解釈するかには諸説あるようですが、私は、理想郷とは外に求めるものではなく、己の心のあり方次第であるということを意味しているのではないかと思います。ありふれた日常を大切にすること、生きてあるこの命の営みを慈しむこと。

当然ながら現実は常に順風満帆なわけではありません。困難や苦痛、心を閉ざしたくなるような悲しみもあります。けれども、そんな闇をも抱える現実であるからこそ、命は一層強く輝きます。「壽花」とは、闇を照らす私たち一人ひとりの命そのものであり、困難にも折れずに微笑む強さであり、日常・現実を慈しむ心なのです。

草場一壽が長らく追い求めてきたのは、そんな生きる喜び、命の輝きを、いかにして表現するかということでした。作家草場の還暦という節目にあたり、その原点に還って制作したのが「輝き」を追求したスパークリンググレイズのシリーズであり、「壽花」もそのうちの一つです。

この作品の制作にあたって思いめぐらせたのは、命や再生、魂についてでした。自分の本分を全うして生きるということは、己の肉体を生きることとはもっと別の次元にあるのではないかと思います。ただ即物的な欲望を満たすのでもなく、ただ漫然と命を「消費」するのでもなく、「何のために生きるのか」という問いに真摯に向き合い問い続けながら、精進を重ねて生きること。それこそが本当に命を輝かせること、真に自在に生きることであり、肉体の苦楽とは根本的に異なる魂の幸せをもたらすのではないでしょうか。

還暦は生まれ直る節目ですが、「何のために生きるか」という問い直しはいつでも己の心ひとつでできることであり、その意味では私たちは毎日生まれ変わり、命の輝きを新たにできます。魂の営みを繰り返し、常に身の内に桃源郷を抱えて輝きたい、そんな決意表明を「壽花」に込めました。

そして、決意を込めたこの作品を、このたびデジタルスクリーン偏光パール彩という新しい技術で再現しました。紙の上で陶彩画の輝きや色彩を表現するのは至難の業ですが、特殊なインクと手の込んだ技法を用いる新技術は、「壽花」の細かな煌めきを表現することに成功したのです。加えて、この技法の特徴の一つである、光の粒子がもたらす角度による色の変化は、この作品においては桃色の霧のように現れました。薄紅色に霞む向こう側、煌めく光の中で龍が遊び、仙女が舞い、花咲か爺さんが花びらを散らし新たな命を生む。「桃源郷」という言葉から受ける印象そのもののような作品ができあがりました。

ある陶淵明の研究者は、映画「千と千尋の神隠し」主題歌「いつも何度でも」の歌詞こそが「桃花源記」を良い解釈であるとしているそうです。

「海の彼方には もう探さない

輝くものは いつもここに

わたしのなかに みつけられたから」

生きる意味を問い直し、幸福の種を自分の内側に見出す、その一助となるような作品として、デジタルスクリーン偏光パール彩「壽花」をお手元で楽しんでいただければ幸いです。
草場一壽工房

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