コノハナサクヤヒメ (3)

コノハナサクヤヒメ

草場一壽は『古事記』の神々の作品をつくらせていただくなかで、いつも素晴らしい気づきをいただくそうです。

だからこそ、「無性に作品をつくりたくなる!   神話に秘められている教えやテーマは本当に 広大で、深遠で、すごい」と草場は訴えます。 今回は、コノハナサクヤヒメ。その神話が現代に伝えているものは何か?
30 年以上、神話世界に向き合い続けた草場だからこそ見える芳醇なる世界があります。

コノハナサクヤヒメの神話世界

前回ご紹介したイザナギ、イザナミの子とされている一柱がオオヤマズミノカミで、山の神です。この神は、山に宿る神というより山そのものであり、山が司る様々な働きを表してしているのだろうと私は感じています。

山は、雨や雪で水を蓄え、その水はゆっくりと河川に流れ、鉱物のミネラルや腐葉土の貴重な栄養分を平地へと運んでくれます。二千年以上も同じ場所で、連作障害も無く稲作ができているのは、日本にこうした山々の働きがあるからなのです。

そのオオヤマズミノカミの娘が今回取り上げるコノハナサクヤヒメであり、ニニギノミコトが天孫降臨の際、あまりにも美しい人に出会ってしまったと恋をして、求婚されるお相手です。

オオヤマズミノカミもこれを非常に喜ばれ婚姻を認めるのですが、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせます。
ところが、ニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメだけでよいと、醜いイワナガヒメを追い返してしまいます。

その結果、何が起きたか。

オオヤマズミノカミは怒り、ニニギノミコトにこう告げます。「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば、命は岩のように永遠のものとなり、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたのだ。コノハナサクヤヒメだけと結婚するならば、命は木の花のようにはかなくなるだろう」。

美しさとは儚いものであり、コノハナサクヤヒメとは木の花のような一代の栄華。一方でイワナガヒメはいのちそのものであって、循環という永遠のいのちの象徴です。それを追い返してしまったため、これを境に人間には死というものが与えられるのです。

さて、この神話は、どういうことを教えているのでしょう?

例えば、磁石の棒には S 極と N 極があり、「S 極が好きだから」と真ん中から切るとします。すると、その瞬間に、また切ったところに N 極ができ、S 極と N 極の両極ができます。どんなに真ん中を切り続けても、どんなに小さくなっても必ず S 極と N 極ができるのです。

このように、好きな部分と嫌いな部分は常に一体であり、本来割れないものを割ってしまったところに、死ということが生まれた。本当は丸ごと受け取らなければいけなかったわけです。
「これが良い(美しい)、これが悪い(醜い)」というのは、あくまで物質の世界のことだという気がします。五感を通して「見えている世界」は、この物質の世界にすぎないと思うのです。

では、本当の世界は何だろうと考えた時、「物」を突き詰めていくと、 10 億分の 1 メートル以下の分子の世界となり、この分子をさらに割っていくと原子があり中性子と陽子(原子核)、さらにその周りに電子が回っています。

原子核の周りを電子が飛び交って回っているという構造は、太陽のような恒星の周りを地球のような惑星が回る構造と似ています。さらに 20 世紀を目前に発見されたのは、 10 のマイナス 19 乗ミリ以下と言われてる極小の世界、素粒子でした。
「物」と私たちは一言で言っていますが、実はその中には宇宙と表現できるような無限の空間が広がっています。五感では単に物体に見えるだけですが、実際は超高速で動いている=波動(エネルギー)の世界です。それが真実であり、「神の震え」とでも言うべきものです。

これこそが真実であるのに、目に見える「物」の固定的な観念の世界に囚われ、本当は「神の震え」であるということを忘れてしまっているのです。

コノハナサクヤヒメとニニギノミコトの神話は、まさにそのような人間の姿のはじまりのお話ではないかと思います。

本来一体であるのに、心と物質を分けてしまったという誤り。見えない神様の心の響きが万物をつくったことを忘れて、目に見えるものだけを頼りにする価値観。
そんなことを神話から感じます。私たちのそうした姿を投影した世界がまさに難題を抱えているのですね。  「今こそ、我々自身が神そのものの響きであり、自分の内側にその神の世界を抱いていることを思い出しましょう」ということをメッセージとして描いたのが、このコノハナサクヤヒメの絵になります。

自心の外に神はなし

陶彩画で、水辺に佇んでいるのがコノハナサクヤヒメです。その水面に映っている、もう一柱の神様がイワナガヒメです。

コノハナサクヤヒメが水鏡に自分の顔を写した時、水面が揺れていたら、自分の顔も揺れて見えます。本当の姿は映りません。もし、さざ波ひとつ立たない鏡のような水面だったなら、きちんと自分の顔が映るのでしょうね。

本当の自分の姿とは何なのか? ということを、この作品を通し、あらためて考えてもらいたいのです。

常に私たちは五感を通し「物」というものを認識しようとしていますが、神は見えず、神の心の響きも見えません。しかし、神の世界を大宇宙とするなら、自分の本体も小宇宙(魂とも霊とも)です。神の震えに共振し、神の心の響き、そのものなのです。
今、科学の最先端でも、素粒子というものを扱い始めることによって、そういうことがようやく理解されるようになってきました。見る人の心の想念によって、
世界はそれぞれ違って見える、というようなことも科学の見地でも言われるようになったのです。

絵の中には桜も描いています。花といえば今の日本では桜であり、コノハナサクヤヒメというと桜とされていますが、ソメイヨシノが日本全国に広がっていった江戸時代以前、その花は梅であったかもしれません。

いずれにせよ、桜自体非常に儚く、満開の時は綺麗ですが、散る時は花吹雪となる、哀れな一面も持っています。そして、散った時から次に花を咲かせる準備もしているのです。

同様に、私たちも肉体を持つ身として、いつかはこの世を卒業します。しかし、神そのものの響きというものが肉体をつくり精神をつくり、いのちは循環することで永遠です。

コノハナサクヤヒメにはもうひとつ面白い、印象的なお話があります。

コノハナサクヤヒメは新婚初夜で身籠るのですが、そのためニニギノミコトは自分の子ではなく国津神の子ではないかと疑います。すると、コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために、産屋に火を放ち、炎の中で無事に3人の子を産み落とすのです。火が勢いよく燃え盛っている時に生まれたのが火照命(ホデリノミコト)、次に産まれたのが火須勢理命(ホスセリノミコト)、最後が火遠理命(ホオリノミコト)です。

これをどう解釈するか。肉体が自分だと思っていれば焼け死ぬでしょうが、自分は霊であり、神そのものの響きなのだという自覚と感覚があるとき、違う世界が開けることを象徴的に物語っています。

たとえれば武道の世界です。武道では、敵だと思っているうちは負ける、敵を敵と思わなくなる境地が理想だと言われます。剣道でも七段以上になってくると、
「人を斬らないで、人の邪気を斬る」と言い、合気道では「殺しにきた敵と友達になることが合気の道だ」と教えています。そうして、対峙すべき「敵」は消えるのです。

肉体が自分だと思っているうちは老いて死んでいく身に過ぎないのですが、自分は神そのものの響きであるという自覚を持った時、世界は反転します。

よく「調和の世界をつくりましょう」などと言いますが、元々すでにそのような世界なのですね。たしかに目の前にはいろんな問題が山積みしているかもしれませんが、それはこの世界を物質の世界だと思い込んでいるからです。

本当の世界は陰と陽(二極)がしっかりバランスを取り合った、神の響きそのものです。そういうことを感じることが今とても大切な時代なのだ、と思います。

陰陽二相一対

例えば「いのちは美しいのか、醜いのか」という質問は成り立ちません。美醜を論じるようなところに、いのちそのものを置くことはできないのです。いのちを美しいと全肯定できないとなれば、生もまた否定してしまうことにもなります。

ところが、昨今の風潮では「ブス」「クズ」「ゲス」と、ハッとするような言葉がおおっぴらに使われています。ネット上では、とくに理由もないまま他者を激しく攻撃したり、誹謗中傷するという行為が見られます。いのちに払われるべき敬意が、残念ながらあまりにも浮薄なのです。だから、他者の傷みを感じる心根も麻痺しています。

神の震えに通じる、寛容な眼差しを忘れていますね。
確たる価値観というものは、何なのでしょう?

目に見えるものだけを物差しにする危うさを、思わずにはいられません。

人間には、他者に寄せることができる根源的な共感があり、それが時に悼みになり、時に祈りになると思うのです。

コノハナサクヤヒメのテーマは、「陰陽二相一対」。「太極動いて陽を生ず。動極って静なり。静にして陰を生ず。静極って復た動なり。ひとたびは動、ひとたびは静、互いにその根 こん と為り、陰に分れ陽に分れて、両儀立つ」。
陽は陰が、陰は陽があって、はじめてひとつの要素となりえます。

美醜もまた一体であれば、美しいコノハナサクヤヒメと醜いイワナガヒメも、見るものの鏡に映し出された姿に過ぎません。すなわち「自心すなわち神たることを悟れば、神、願うに及ばず。自心の外に神なし」です。

惑う心が幻を追い、目に見えるものだけを信じ、二相一対の理を忘れるのではないでしょうか。

結局、己に見えているものは、己の心のありように他ならないのです。

 

(雑誌「和合」35号抜粋)

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